キネマ旬報ってまだあったのね、というのは我ながら失礼で申し訳ない。通巻1876号って凄いことだ。(若いころ毎週映画館通いに明け暮れた時代もあったのですよ。)わたし自身が映画離れになったことは、世間のそれと無関係ではないと思う、何となくだけど。子ども時代には(都会でもない)近所に何件も映画館があったもんだ。・・・そんなわたしが今号をぜひとも読みたいと切望したのは、(まったくもって偶然?広告を目にした)特集として組まれたテーマ「映画にしなければならないもの」・・・が本当にあるのか? と心を突き動かされたから。穿った謂いではあるが、娯楽や芸術の多様化が花開いた現代に、真に、映画にしなければならないものがあるのだろうか。映画『護られなかった者たちへ』(監督=瀬々敬久/出演=佐藤健・阿部寛ほか)という作品をぜひ観てから、本書を読み直してみたいとは念う。
「僕らは、映画館と同じような場所で実際に音を出して『映画館ではどう聞こえるのか?』を確認しながら最後にダビング作業をするわけです。つまり僕にとっての映画とは、映画館で上映されることを前提として作っているもの。(中略)パソコンやテレビで観ることとはまったく違うもので、見知らぬ人々と共有した時間でもある。」
監督・脚本 瀬々敬久/取材・文=渡邊玲子
「(前略)こういうアプローチでいきたいということを瀬々監督には伝えていました。」
「僕はこの仕事を引き受けたとき、この映画が問題提起の一つになればいい、そして観終えた方が希望を抱いてくださるようなものになれば(以下略)」
佐藤健 /構成=編集部
「ロケ現場で、さまざまなことを感じながら役に取り組んでいきました。この作品に、人間の底力というものが表れていると思いながら演じていました」
阿部寛/構成=編集部
「映画にしなければならないもの」それは、映画をつくる人一人ひとりの胸に宿っているのだ。ただ・・・本来、それは秘匿されたままで良いのではないか、とわたしはいまでも想うが、時代がそれを許さないのだろうか。