小気味よいテンポで文章の波が五感すべてに作用してくる、といった感覚にひたる。とりわけ嗅覚、触覚がリアルに沸き立つような表現たちは気持ち悪い部類のはずなのに、さらっとしていて不快感を引きずらず、物語の進行を妨げないでいる。
ユン・テジンが動くたびに、ソファは生き物のように反応し、音と匂いを放った。そんなとき、ユン・テジンは自分が陟州で最も憎悪しているのはこのソファではないかと思うのだった。老いた男たちの真っ黒な尻と、かしましい中年女たちの尻、飲み屋で何時間も居座ってきた事務局長の尻、どこの便器でどんな分泌物をつけてきたかもわからない尻たちが、数知れず座っては出ていくこのソファで、ユン・テジンは顔を埋めて眠るのだった。
(原文のテンポや匂いが寸分違わずそのまま邦訳に反映されていると勝手に確信した。)一例にこの尻たちの描写を挙げるのはどうかと思う御仁もあるかもしれないが、わたしのお気に入りだから仕方ない。
本作は愛の物語にちがいないのだけれど、社会の欺瞞や人災が醜悪であればあるほど、また感情の裏面にある憎悪や不安やらといった感情が悲壮的であればあるほど、言葉で愛だ恋だを語らないのにしっかりと愛の燈が点っている。黙って佇む著者近影にように。
最近の読書10冊(予定を含む)
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- 江戸の空見師 嵐太郎 佐和みずえ(著)
- その白さえ嘘だとしても 河野裕(著)階段島シリーズ第二作 新潮文庫書き下ろし
- indigo+ 赤崎チカ(著)Time is Art シリーズⅢ
- 古書店主とお客さんによる古本入門 漱石全集を買った日 山本善行×清水裕也(対談)
- 暮しの手帖1971年夏号
- 八年後のたけくらべ 領家髙子(著)
- キャパとゲルダ ROBERT CAPA & GERDA TARO ふたりの戦場カメラマン EYES OF THE WORLD マーク・アロンソン&マリナ・ブドーズ(著)原田勝(訳)
- ウルスリのすず SCHELLEN-URSLI ゼリーナ・ヘンツ(文)アロイス・カリジェ(絵)大塚勇三(訳)
- まことに残念ですが… ROTTEN・REJECTIONS 不朽の名作への「不採用通知」160選 アンドレ・バーナード(編著)木原武一(監修)中原裕子(訳)