小気味よいテンポで文章の波が五感すべてに作用してくる、といった感覚にひたる。とりわけ嗅覚、触覚がリアルに沸き立つような表現たちは気持ち悪い部類のはずなのに、さらっとしていて不快感を引きずらず、物語の進行を妨げないでいる。
ユン・テジンが動くたびに、ソファは生き物のように反応し、音と匂いを放った。そんなとき、ユン・テジンは自分が陟州で最も憎悪しているのはこのソファではないかと思うのだった。老いた男たちの真っ黒な尻と、かしましい中年女たちの尻、飲み屋で何時間も居座ってきた事務局長の尻、どこの便器でどんな分泌物をつけてきたかもわからない尻たちが、数知れず座っては出ていくこのソファで、ユン・テジンは顔を埋めて眠るのだった。
(原文のテンポや匂いが寸分違わずそのまま邦訳に反映されていると勝手に確信した。)一例にこの尻たちの描写を挙げるのはどうかと思う御仁もあるかもしれないが、わたしのお気に入りだから仕方ない。
本作は愛の物語にちがいないのだけれど、社会の欺瞞や人災が醜悪であればあるほど、また感情の裏面にある憎悪や不安やらといった感情が悲壮的であればあるほど、言葉で愛だ恋だを語らないのにしっかりと愛の燈が点っている。黙って佇む著者近影にように。
最近の読書10冊(予定を含む)
- 春の宵(著)クォン・ヨソン(訳)橋本智保/韓国女性文学シリーズ4
- アジの味(著)クォン・ヨソン(訳)斎藤真理子(頭木弘樹編『絶望書店』所収)
- ゆるく考える(著)東浩紀 (河出文庫)
- 他所者の神戸(執筆)尾原宏之(『図書』岩波書店定期購読誌2021年6月号)
- 実力も運のうち 能力主義は正義か? マイケル・サンデル(著)鬼澤忍(訳)
- 「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ 長島有里枝(著)
- 未確認ハンバーグ弁当(作)日向理恵子/日本児童文学2021年5・6月号
- 雲と空のはざまで(執筆)大河原 愛(『図書』岩波書店定期購読誌2021年5月号/巻頭)
- お探し物は図書室まで 青山美智子(著)さくだゆうこ(羊毛フェルト)写真(小嶋淑子)装丁(須田杏菜)
- 三の隣は五号室 長嶋有(著)中公文庫