反出生主義そのものは古代から今に連なるひとつの思想だ。(今日の愛媛新聞書評欄で)評者・加藤秀一さんはその流れを「連綿たる流れ(濁流?)」と書いている。清濁あわせもつのが人類の知の歴史である以上、目を背けずに真摯に俯瞰しているだけでも価値ある著といえる。しかしそれだけで結ばずに、誕生肯定の哲学を築こうとする著者の念いこそ「本書の白眉」「始まりの書」と評者は称えている。でも、でも、それでも、本当に萌芽にすぎないと著者は自覚しているし、読者のわたしもそこは確信する。
ニーチェの運命愛のなかに可能性を探したい。それは運命愛に内包されているところの「誕生肯定」の可能性である。すなわち運命愛の、「現にそれがあるのとは違ったふうなあり方であってほしいなどとは決して思わない」という命題を「誕生肯定」として解釈し、誕生否定を克服する道へとつなげていく可能性である。これは「生まれてきた」運命と必然性を愛せるかという問いでもあるし、さらにもう一歩踏み込めば、「生まれてこないほうが良かった」としか思えない人生であったとしても、私はそれを愛することができるかという問いへとつながっていく。・・・ニーチェを超えてさらに遠くまで飛ぼうとすること・・・
p.260~261
ニーチェの思想は「永遠回帰」の前提があることを思えば、かれとは別の「一回限りの尊厳」をどのように確立するのか、無謀な論理構築ごっこと言えなくも無い。その意味で、まぎれもなく萌芽にすぎないのだ。
また、人間をして精神的存在である以前に、生物的存在であると、生物学的考察に立ち入ろうとする展開があり、一応理解できるものの、現実の実験科学ではバクテリアレベルでの知能の研究というのが行われ出したところだから、道程は果てしなく遠いとしか言いようがない。それでも、それでも、意味は無くは無い、といった地点だろうか。
さて、(無理矢理、わたしの結論。)地獄といえそうな不条理な苦悩の連続に生を肯定できない人びとは、いつの時代にもあったし、これからもあるだろう。そう認知したうえでも現代は、殊の外、そうした人びとの疎外感が急速に高まっているやに見える。情報社会のゆえに格差が否応なく透けて見えてしまうから、目の前の苦を一層つらいものに塗り固めていく、そんな重苦を払拭する具体的方策が見当たらない以上、なにをたよりに生きていけばよいのか。。。哲学者であれ宗教者であれ、(チャラいハウツー感覚の精神世界談義など--たとえば啓発本一冊読んで人生が激変する!?--なんて類いを相手にしないで)それぞれ原初に立ち帰りつつも現代人の苦悩に即して、きちんと一条の光を指し示すべく共に苦悩しなければ。そのほかに拠って立つべき原点は無いであろう。
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