もっともらしさ(執筆)畑中章宏(『図書』岩波書店定期購読誌2021年3月号/らしさについて考える④)

みごとに予想を裏切られた♪ タイトルも、切り口も、そして何より結末も。もっともらしさの代表格として標的にされたのは「神」の「もっともらしさ」だった。まず、ここでギョッとしたのは神の存在そのものを論じ出すのかと見えたからだが、(限られた紙数で陳腐な宗教観を披露されたら付いていけないところだった。)論点は「神の偶像」のもっともらしさに絞られる。本来、視覚に訴えなければ理解を歪められることもない存在に姿形を与えるという行為はジレンマを伴う。その実際は、日本の神仏習合のみならず、8世紀のビザンティン帝国による偶像破壊令まで持ち出して紹介しているから、古今東西を問わない普遍性を帯びる。

・・・以上は、見事な前振りだった。「もっともらしさ」のメイン・ターゲットは、「AI美空ひばり」を筆頭とする、得も言われぬ不気味さだ。わたしもTV放送で看たが、デジタル技術の未熟さの問題というよりも、想像力の未熟さが勝っているきがしたものだ。門外漢として初耳だったのは「不気味の谷」と呼ばれる現象名。

「不気味の谷」とは、人間ロボットの様態があまりにも人間に近くなったとき、(中略)ある程度までは親近感を増していくが、人間にかなり近づいたところにくると、不気味さや嫌悪感が生まれる。この境を越えて人間に似せていくと、今度は急速に親近感が増すといい、その親近感のグラフにV字の谷が現れる(以下略)

なるほど。結びが、またイイ。比べれば、神像のもっともらしさには「実体のなさ」を表現しようとする敬虔な態度が漲っていたのだ。

AIを使いこなして故人を再生できると過信した現代の技術者より、日本列島の古代や中世、神仏習合時代の人々のほうが、そうした綱渡りのような表現を会得していたように私には思えるのだ。

《参考》過去の「子どもらしさ」の巻はこちら。「女らしさ」の巻はこちら。「男らしさ」の巻は、こちら