もともと「愛媛の俳諧史」執筆を頼まれたのに、明治以降の新派は書けないと著者の意向でタイトル変更となった本。昭和37年発行。
著者・星加宗一さんはそのころ県立八幡浜高校校長で江戸時代の俳諧研究をされていた由。なかなか頑固なお方のようだ。子規らによって月並み俳句などと蔑視された旧派について、擁護する立場を何度も表明されてある。批判されるに至ったのは、それだけ携わる裾野が広がりすぎて、中には藩主や身分の高い士、庄屋などあり、容易に排除できない弊害を有したためであって、駄作も多いが、「拾うべき珠玉がいくらもあった」と強調している(ほんと可笑しいほどに)。
伊予には芭蕉門人に学んだそこそこの人が幾人もあったという。元禄年間の人で隋友は相当な人だったようだが経歴等不詳。彫宲という人は松山藩の医官で其角に学び、其角の手引きで芭蕉を邸にむかえて即興の連歌俳諧の会を催した。
壬申(元禄5年)12月20日即興
打よりて花入採れんめつばき 芭蕉
降こむまゝのはつ雪の宿 彫宲
目にたゝぬつまり肴を引かへて 晋子
羽織のよさに行を繕ふ 黄山
(以下略。わたしにはよく解せないので、この辺で。)。。。黄山という人も松山の人。ほかに久松粛山という其角の弟子もあった。当時の松山は上から下まで其角に染まっていたという。
なお、この叢書は誤字が多かったみたいだ。所持本にはシリーズ既刊本「愛媛の植物」の正誤表が挟んであったが、植物名などの間違い多すぎだろ。よって本書もどこまで信じられるか不安になる。