実力も運のうち 能力主義は正義か? マイケル・サンデル(著)鬼澤忍(訳)

「学力偏重主義ーー容認されている最後の偏見」この第4章タイトルが一番しっくりきた。能力至上主義はかつての上流階級中心の社会像を変えたように見えて、さして流動的な平等社会を築けていないばかりか、正義面した偽善者そのもの・・・なのに大衆は騙されたまま。あれが悪い、こちらが間違いと、対立したふりをして政治屋も評論屋も巨悪の根っこを見えないようにしている。(彼ら自身気づいていない可能性もあるが。)

プロローグではコロナ禍の米国内格差を見つめつつ、その遠因として歴代大統領の愚政に言及。日本人にはクリスチャンの精神基盤にある(あったというべきか)神の恩恵思想の変化は実感しづらいかもしれないが、トランプさんの大衆心理操作術は理解しやすい。しかも問題は「賢い者と愚かな者」というラベリングが長年にわたる米国ドリームとセットで人びとを洗脳してきていたとは。

思い起こされた日本語がある。それは「怜悧」。現在では、かしこいという意味。無論、以前からそうには違いないのだが、そのニュアンスが明治と昭和では大きく転換していたのだ。(ネタ本は略すが)明治35年の『性行字類』(陸軍の勤務評定用の本らしい/兵事雑誌社)では「・・・ススドク立廻ルコト」として悪行に分類されてある。それが昭和7年になると同類の『性行辞典』(武揚堂書店)に「・・・小さなことによく智慧がまはること」として善の部に編入している。欧米追従の富国強兵のなかで、日本の価値観もまた能力主義へと舵を切ったのだ。

本書の話題にもどる。教育等の機会の平等ということが声髙に叫ばれているが、それはあくまで救済の第一歩にすぎない。なのにそれこそが理想の地点のように謳われてしまっていることが偽善なのだ。著者はさらに成果の平等、そしてさらに条件の平等の論考を提示している。1931年に出た『平等論』(イギリスの経済史家・社会評論家R・H・トーニー著)に述べられている文章(の一節)を引いて、わたしの記憶にとどめておきたいと念う。

個人が幸せになるためには(中略)出世しようがしまいが、尊厳と文化のある生活を送ることができなければならない。

p.319 「結論ーー能力と共通善」

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