「哲学の言語は存在しない」とは哲学の本質を言いえて妙だ。しかし哲学を論じようとすれば、なんらかの言語に依らねばならない。歴史的にはギリシア語が祖語として君臨し、他の諸語への翻訳において、基幹となる用語の意味がゆらぐ。いや、そもそも絶対的な意味など存するのか。現代(1990年の本です)のテクスト論を西欧諸国の各哲学専門家に多面的にアプローチしてもらったのが本書。みんな日本語ということだから、日本語がどこまで哲学の言語たりえるのか、に迫る書ともいえるのでは。
(おお、理屈っぽいなあ。)
「哲学の言語は存在しない」とは哲学の本質を言いえて妙だ。しかし哲学を論じようとすれば、なんらかの言語に依らねばならない。歴史的にはギリシア語が祖語として君臨し、他の諸語への翻訳において、基幹となる用語の意味がゆらぐ。いや、そもそも絶対的な意味など存するのか。現代(1990年の本です)のテクスト論を西欧諸国の各哲学専門家に多面的にアプローチしてもらったのが本書。みんな日本語ということだから、日本語がどこまで哲学の言語たりえるのか、に迫る書ともいえるのでは。
(おお、理屈っぽいなあ。)