大蔵一要

※ここは未だ披瀝するほどの内容も整理もできていない個人のWEB雑記です。

[2020/11/15記-2021/02/25更新]

【語釈】

大蔵

大蔵経(一切経とも称す)を指す仏教用語。経というからには基本は仏典に限られるはずだが、律・論を加えた三蔵さらに中国・日本等における解説・注釈の古典的書巻をも包含することが一般的である。(現に閲覧可能な文献という意味では大正新修大蔵経が広く認知参照されているが、完璧ではない。なお私見として、古典的という基準については目下不詳としておく。)

一要

最要とも称す。唯一絶待の重要部分。

【題号釈のための概観】(試案ver1.1)

字義のまま解釈すれば、一切経のなかの最重要部分を意味するが、留意吟味すべき点がいくつかある。第一に、その部分と全体の関係性である。究極的には能所の問題に至ることだけをここに明かす。第二に、そもそも経とは何かということ、それは教観の問題、三世益物の義を経て一大事因縁の根源、能開の神(たましい)に極まる。

【参考文献】大蔵最要法華心抄 完・・・此は日隆聖人の御製作、私新抄十三巻の中の第三の当宗行義の事とある一段を別に拝写・・・(sz3997取意)

仏法修行の大綱。内証(異本加筆;得意)の解は至て身口修行に広し。其悟[異本;言語]の教門は最要を詮とすべし。広を捨て略を取り、略を捨て要を取る、いわゆる上行所傳の題目と立[異本;云]る。殊更末法の行儀は逆罪の者を正と為す。故に體玄義*は所用に非ず。惣名能開の妙法蓮華経本門なれば名において本迹を分かちて宗要[異本;宗旨]とすべし。

※異本=日宗全8巻所収、私新抄 ※句読点、訓みも異なるが繁きゆえに略す。

* 體玄義

ワタシ云、體玄義について本國寺の五十五箇条では迹門法身と本門法身と一體と談ずる由を、隆師聖人は像法弘法の大旨に順ずるとて破したまえり。これが当段の本旨である。

→上行

上行菩薩が上首となって傳えてくださる題目のみを要法とする。ゆえに、その意を明確にするために要法題目を「上行所傳の題目」と呼ぶ。

【大蔵一要、本文】

妙法五字は人みな、いはれをしらねば経の名と思へり。さにはあらず。文にあらず義にあらず、一部八巻廿八品六万九千三百八十四言の御神ひ也。故に甚深の奥蔵と申し、一念三千の宝珠此中にあり。かかる尊貴の法門は実に今生人界のおもひ出なり。我慢偏執のこころなく、唯本門の肝心、上行菩薩所傳の南無妙法蓮華経と唱へ給ふべし。されば経に云 遍満三千界 随意即能至 文。凡夫の小声も大法の螺に入れて吹時は、遠くひびくがごとし。されば謗法の迷路をあらため、寂光本宮に導れて、三仏の顔貌を拝し奉らんこと、うたがひなきもの也。是全く自力にあらず、経力仏力の御故也。此筋の御法門どもいはまほしきは、限りなければ唯肝要を好ませ給ふ。・・・後哲の明判をこふ。あなかしこや。

[大蔵一要 全]

【参考付言】

我等己心の仏界(乃至)菩薩界 十界と云々 神ひに能所、能開・所開あり

[開導要決11]sz7796

[意訳](草稿ver1.1)

妙法蓮華経について人は大概、成立の由来をしらないために、お経の題名でしかないと思っている。そうではない。単なる文字ではないし、意味する内容をそう呼んでいるだけでもない。妙法蓮華経と名付けられたお経(巻物にして8巻、章立てにして28章、字数にして69,384字)の御たましい南無妙法蓮華経そのものに他ならず、南無妙法蓮華経の五字と申すのである。

 →[補註]南無妙法蓮華経の五字七字

それゆえに「甚深の奥蔵」といい、その蔵の中には宝珠たる「おさとり」(一念三千)が存しているのである。このような尊貴な説法に出遭えるのは本当に一生の思い出である。へりくつを垂れる心なく、唯ただ、本門法華経の肝心で、上行菩薩から傳授された南無妙法蓮華経を、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、……とお唱えなさい。

 →[補註]我慢偏執のこころ

 →[補註]本門

だから御経には「(唱える妙音で)この世界中を満たしたいと願うなら、(諸仏・諸天の守護を得て)意のままに達成できよう」と説かれて、清浄な唱題の声を響かせるよう促されている。ちょうどそれは、われらのごとき拙い凡人が発する小声であっても、大きな法螺貝に吹き込めば遠くまで響きわたるように、南無妙法蓮華経という大法に声をそそぐ威力の広大さを示されたものである。

 →[補註]遍満三千界 随意即能至

<以下未完>


[更新履歴]

2020/12/15 [補註]本門を更新。

2020/12/28 [参考付言]開導要決11を加筆。

2021/01/18 字句修正。【語釈】【題号釈のための概観】を追加。