日本幼児史 子どもへのまなざし 柴田純(著)

畑中章宏さんの「子どもらしさ」考での引用紹介に触発されて一読したが、新たな知見がいくつもあって愉しかった。柳田国男さんの「七つ前は神のうち」説を胡散臭いと明言するだけなら誰でも出来るが(ほんとは畏れ多くて出来ないけど)、精査して論拠不十分としているのは実に明快と感じる。それじゃあ、どうして日本では幼児に関して独特な習俗があり、長らく堕胎や捨て子が問題行動として社会から糾弾されずにきたのか、その答は謎のままだ。著者は今後の幼児研究の姿勢として「神性」「聖性」を排除することを謳っているのだけれど(あなたはどうぞその方向でご自由にやってね)、わたしにはどこまでも残り香として付きまとう。この国で永く、七歳までとそれ以降を隔てた何かしらは文献にも残らないような、形無い存在にちがいないから、一層と想像力をたくましくするよりないと思う(もちろん、根拠は必要)。その意味で柳田国男さんの信じたものを追いかけるヒトもまた求められる。

で、ほかにも面白いことが書いてあるのを記録しておかなきゃ。幼児をヒトの世界から除いただけかた思ったら、近世江戸時代においては幼児と並んで老人もまたヒトでない扱いを受けていた。民俗学的なそれではく、法制度下の話だ。七歳以下は智も力もないので犯罪者でも罪なし、罰なしとされ、同時に(藩によって温度差はあるが)九〇歳以上は死罪相当でも刑罰を加えないとか八〇以上なら、などの制度が存したのだ。

また、生類憐れみの令によって捨て子が裁きの対象となったというのも、今日の人道的知見がその時期を境に大きく動いたと見えて、わが国の人権史という観点から江戸時代をターニングポイントと押さえられるのだ。

話を子どもらしさの戻そう。子どもらしさを問うとき、日本史では七歳までの子どもらしさとそれ以上の子どもらしさを分けて考える必要がありそうだが、霊性とか神性とかの感覚が古代、中世、近世でどうだったのか、どんな研究が可能なのか、謎が深まるという一点だけでも充分ワクワクする。

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